女子修道院

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町で唯一の修道女のための施設。会派はスペインに本部を置く「無原罪の御宿り女子修道会」(スペイン語 Limpia Concepción de Nuestra Señora)。東西120m、南北60mの敷地の中に多くの建物があったことが当時の地図によってわかっている。1594年11月29日に町議会議長のフランシスコ・デ・カルデーナスのもと、検事総長のアンドレス・コルテスの女子修道院設立の提案が議会で承認された。検事総長の提案の原点は、町に住む財産を持たないために将来結婚できない貧しい家に育った少女や身寄り・収入のない未亡人たち、または親がいない農民の子供たちを救済することにあった。女子修道院設立のために現在のペルーの首都、当時はスペイン統治下のリマから院長と副院長、修道女の教育を担当する教師の総勢3名が1598年6月10日にパナマの町に船で到着した(そのほかに修道女の諸用を勤める女性1名がいたが途上船内で死亡した)。設立当初は財政的に恵まれていなかったが、17世紀にいたって町の有力者フランシスコ・テリン(スペイン語 Francisco Terrín)の財政的支援を受け、周辺の地所を取得・拡張を繰り返して町最大の宗教施設になった。17世紀初頭には従来の木造建物から現存する石造建物に作り変えられたが、1621年の地震によって大部分が崩落した。再建間もない1671年、ヘンリー・モーガンによる町襲撃時に修道院長は修道女たちを小さな船に乗せてリマへと立ち去った。町の復興後は中心部に近い場所に再建を果たしたが、往時ほどの勢力を保つことはできなかった。現在では礼拝堂の修復作業もほぼ終了し、床部分を補強して記念式典や演劇・ミニコンサート会場などとして現地に密着した利用が図られている。

植民地時代のパナマ・ビエホの歴史的遺産とパナマ旧市街

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植民地時代のパナマ・ビエホの歴史的遺産とパナマ旧市街は、中米の国、パナマの首都であるパナマシティの東に位置している世界遺産に登録されている文化財として貴重な建造物群である。

①大聖堂
南北55m、東西最大35mの規模を持つ町の象徴的建物。現在では多くの観光書・パンフレット等にも掲載されている。町の設立当初、16世紀初頭には小規模な木造建物だったが、1619年には現存の石組み建物が建設されている。町最大の広場である中央広場の東に面している。建物は南北方向に長く南に祭壇があり、左右に付属礼拝堂を伴う形はさながらラテン十字を模すバシリカの様相を呈している。また祭壇右奥に高さ33mの鐘楼(トーレ スペイン語 Torre)が敷設されている。鐘楼は2006年4月に修復5ヵ年計画が完了し、本来内部は吹き抜けだが階段を設置して展望台として一般に公開している。また、パナマ・ビエホ財団のロゴマークはこの鐘楼をデザイン化したものである。

タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群

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タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群とラ・アミスター国立公園は、コスタリカとパナマにまたがる世界遺産である。1983年にコスタリカの世界遺産として、7つの国立公園や自然保護区がまとめて「タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群」として登録された後、1990年にパナマのラ・アミスター国立公園が加えられた。ラ・アミスター国立公園は、1988年にパナマとコスタリカが共同管理する国際平和公園であるラ・アミスター国際公園の一部になっている。

この一帯は世界遺産になるよりも早い1982年に生物圏保護区に指定されている。そのときにパナマ、コスタリカをまたぐ指定を受けていたことが、後の世界遺産の登録拡大にも関係した。

一帯の動物相や植物相の特色についてはタラマンカ山脈を参照のこと。

ダリエン国立公園

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ダリエン国立公園は、パナマのダリエン県にある、ユネスコの世界遺産にも登録されている国立公園である。コロンビアとの国境付近に広がっており、国境の向い側にはコロンビアの世界遺産であるロス・カティオス国立公園が広がっている。

1980年に国立公園が設定され、1983年には生物圏保護区に指定された。背景にあったのは、当時建設が進められていたパンアメリカンハイウェイの建設工事が、国境付近の環境の悪化につながることが懸念されたことである。国立公園が設定された結果、この縦断道路はパナマのヤビーサ付近で一度途切れることになった

パナマのカリブ海沿岸の要塞群

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パナマのカリブ海沿岸の要塞群は、パナマにあるユネスコの世界遺産登録物件の一つで、パナマの世界遺産の中では最初に登録されたものである。ポルトベロに残る5つの要塞跡と、サン・ロレンソ要塞の遺構が登録対象となっている。

スペインの植民地だった時代のポルトベロは、銀の積出港として栄えた港町であった。当時はその経済的重要性から略奪行為などの標的になることもしばしばで、港町の防衛施設群を整えることが要請された。その結果、17世紀前半に、湾の入り口に2つ(サン・フェリペ・トド・フィエロ要塞とサンティアゴ・デ・ラ・グロリア要塞)と湾内に2つ(サン・クリストバル要塞とサン・フェルナンド要塞)の要塞が配置され、さらに湾の最奥部の港町自体にもサン・ヘロニモ要塞が置かれた。これら5つの要塞群がポルトベロの防衛を担ったのである。

しかし、この要塞群は難攻不落とは行かず、1668年にはヘンリー・モーガンの私掠船団によって、1739年のエドワード・ヴァーノンの艦隊によって、それぞれ大規模な占領や掠奪に遭った。現在残る要塞群は1750年代以降に改修されたもので、国立歴史公園として保存されている。

このポルトベロから南西に60 km ほどいったチャグレス川河口付近の小高い丘の上に建設されたのが、サン・ロレンソ要塞である。こちらの要塞は17世紀の建造以降大きく損壊することがなかったため、当時の姿を良好にとどめている。

これらの遺跡群は、かつてスペインが植民地で築いた軍事施設の建築水準を今に伝える優れた例証となっていることなどから、世界遺産に登録された。

首都の歴史について

パナマ市は、1519年8月15日にペドロ・アリアス・デ・アビラ(スペイン語:Pedro Arias de Avila)により建設されたことから始まる。昔も今もこの都市は、地峡を利用した国際貿易と金融業で繁栄している。かつては、南米ペルーへの探検と、黄金や銀をスペインへ運ぶための拠点であった。1671年1月28日には、1400人の海賊を率いてやってきたイギリス人のヘンリー・モーガンが都市を攻撃、黄金を略奪後、火を使い破壊した。このときの遺跡はパナマ・ビエホ (en:Panamá Viejo) と呼ばれ、今日では国内有数の観光名所となっている。ヘンリー・モーガンによる破壊の後、1673年に町は全て約11㎞西南のカスコ・ビエホ (en:Casco Viejo) に移転した。

1848年にカリフォルニアで金が発見され、地峡を渡りアメリカ西海岸へ行く人々が増加した。金の発見の前年、パナマ鉄道会社が設立されたが、1855年まで運行はなかった。1848年から1869年の間に、約375,000人が大西洋から太平洋へ、約225,000人が太平洋から大西洋へ、地峡を利用して渡った。この移動がパナマ市を再び繁栄へ導いた。

交通量の増大がパナマ運河建設へと向かわせ、フランス人技師フェルディナン・ド・レセップス主導で1880年1月1日に建設を開始したが、工事の技術的問題と資金調達の両面で難航し、1889年に計画を放棄した。しかし計画は頓挫したわけでなく、1902年、アメリカ合衆国が連邦議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定した。1903年から工事を始め、3億ドル以上の資金を投入し、1914年8月15日に開通した。

首都の様子

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パナマ (Panama) はパナマ共和国の首都。パナマ共和国と区別するため、「市」またはそれに当たる言葉をつけ、パナマ市、ラ・シウダ・デ・パナマ(スペイン語: Ciudad de Panamá)、パナマシティ(英語: Panama City)などとも言う。以下ではパナマ市と呼ぶ。

太平洋に面しパナマ運河の入り口である。人口は708,738人。北緯8度58分、西経79度32分にある。国の政治、経済、文化の中心。現在の市長はフアン・カルロス・ナバーロ

魚が豊富(b'v`★)b

パナマ共和国(パナマきょうわこく)、通称パナマは、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置する共和制国家である。北西にコスタ・リカと、南東にコロンビアに接し、北はカリブ海と、南は 太平洋に面している。首都はパナマ市。

中米地峡を貫くパナマ運河が通る国である。
式名称は、República de Panamá(スペイン語: レプブリカ・デ・パナマ)。通称はPanamá。

公式の英語表記は Republic of Panama (リパブリック・オブ・パナマ)。通称は Panama。

日本語の表記はパナマ共和国。通称パナマ。漢字では「巴奈馬」と表記される。

国名の由来はインディヘナの言葉で、「魚が豊富」を意味する言葉から来ているとされている。